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東京地方裁判所 昭和63年(行ウ)22号 判決 1992年4月23日

原告

偕成社関連企業臨時労働者組合

右代表者執行委員長

西川玲

右訴訟代理人弁護士

森本宏一郎

山岸和彦

被告

中央労働委員会

右代表者会長

石川吉右衛門

右指定代理人

渡部吉隆

北川俊夫

萩澤清彦

布施直春

桂井健一

本多清六

被告補助参加人

株式会社偕成社

右代表者代表取締役

今村廣

被告補助参加人

市ガ谷図書株式会社

右代表者代表取締役

野村實

右補助参加人両名訴訟代理人弁護士

鈴木稔

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告が昭和五九年(不再)第六六号不当労働行為再審査申立て事件について、昭和六二年一二月一六日付けでなした命令を取り消す。

第二事案の概要

原告偕成社関連企業臨時労働者組合(以下「原告組合」あるいは単に「組合」という。)は、補助参加人市ガ谷図書株式会社(以下「市ガ谷図書」という。)による原告組合の組合員九名全員の解雇(雇止、以下「本件解雇」ともいう。)は、同社と補助参加人株式会社偕成社(以下「偕成社」という。)によって組合の壊滅を意図してなされたもので不当労働行為であるとして、東京都地方労働委員会に救済申立てをしたが棄却された。原告組合は、これを不服として被告中央労働委員会に再審査の申立てをしたが棄却されたので、右命令の取消しを求めたのが本件である。

一  争いのない事実等

1  当事者等

(一) 補助参加人偕成社は、昭和二四年七月一一日に設立され、肩書地に本社を置き、児童図書の出版を主たる業とする会社であり、本件初審申立て当時(昭和五七年一二月六日)の従業員は五〇余名であり、その内部組織は編集部、製作部、総務・経理部、販売部の四部門で編成されていた。

(二) 市ガ谷図書は、昭和四九年以降、偕成社が同社出版物の受取、品出等の現場部門や編集企画部門の一部を本社から切り離し別法人として設立した会社(以下、これら別法人を総称して「偕成社関連企業」という。)の一つで、昭和四九年九月二日設立された。当初、同社は、偕成社ビル内に本社を置いていたが、昭和五七年六月一七日肩書地に移転した。本件初審申立て当時の従業員は一九名であり、これらの従業員はすべて短期雇用契約の労働者であった(<証拠略>)。そして、市ガ谷図書は、その役員・資本構成において、偕成社の関係者で占められ、また、偕成社から品出、返品本の改装・保管等の商品管理業務を請け負うなどし、業務遂行に際し、偕成社各部門から指示・連絡を受けたり、従業員の採用面接に際し偕成社の役職者が立ち会ったりするなど、業務面、労務面でも偕成社と密接な関係にあった。

(三) 原告組合は、昭和五六年四月二二日、市ガ谷図書及び偕成社関連企業の一つである偕成社販売株式会社(以下「偕成社販売」という。)のアルバイト・パート・嘱託等のいわゆる臨時労働者が中心となって結成した労働組合であり、本件初審申立て時の組合員数は九名であったが、市ガ谷図書は昭和五七年九月、これらの組合員に対し、雇止(短期雇用契約の更新拒絶)をした。

2  東京都地方労働委員会(以下「都労委」ともいう。)に継続した都労委昭和五六年(不)第八一号事件の和解とその後の労使関係

(一) 都労委昭和五六年(不)第八一号事件の和解

前記原告組合結成直後の昭和五六年五月から六月にかけて、市ガ谷図書及び偕成社販売は、合理化を理由に組合執行委員七名を含む九名(市ガ谷図書従業員八名、偕成社販売従業員一名)の従業員に対し、雇用契約の更新を行わなかった(雇止)。

組合は同年六月一日、東京都地方労働委員会に対して、この雇止は不当労働行為であるとして、偕成社、市ガ谷図書及び偕成社販売を被申立人とする救済申立て(昭和五六年(不)第八一号事件)をしたが、同年一一月二七日、希望者全員の職場復帰等を内容とする和解が成立し、これにより、雇い止めされた前記九名のうち継続して雇用を要求した七名の組合員らはすべて市ガ谷図書に雇用されることとなった。

なお、和解協定書には、その前文に「市ガ谷図書株式会社(以下、市ガ谷図書株式会社を「会社」という。)」と明記され、組合員の職場復帰について「会社は、昭和五六年一一月二七日付けで組合員太田胤信、同松田秀明、同脇衆一、同川崎恭治、同松本守夫、同西川玲との間でアルバイト労働契約書を、同尾形恵子との間でパートタイマー労働契約書を作成する。」等、尾形恵子の業務について「会社は、偕成社ビル一階で「事務」の業務に従事させる。」また、組合掲示板について「会社は、組合に対し、偕成社ビル地下廊下の別添図面記載の場所へ適当な大きさの掲示板を設置する。」旨記載されている。

昭和五六年一二月一〇日、市ガ谷図書の肥留川満男社長(以下、単に「肥留川」あるいは「肥留川社長」という。)は、取り付けた掲示板を組合に貸与するにあたり、「組合員への告知事項に限る。」等の条件を付した掲示板貸与契約書を執行委員長西川玲に手交し押印するよう要求したが、組合は翌一一日、このような内容では困るとして、具体的な対案を提示することなくこれの受領を拒否した(<証拠略>)。

なお、右和解によって、偕成社販売から市ガ谷図書に移籍された組合員尾形恵子は、偕成社ビル一階で「事務」の仕事に従事することとされていたが、同人が同年一二月二日市ガ谷図書に出社したところ、偕成社ビル一階の倉庫内に作った三面見透しのガラスの小部屋で就労するように命じられたことから、同人も組合もこの措置に強く抗議し、結局、同人はこの場所で就労せず、(<証拠略>)、偕成社ビル一階事務室内で就労した。

(二) その後の労使関係

昭和五六年一二月一五日、組合は、市ガ谷図書、偕成社販売及び偕成社の三社に対して「要求書」(賃金等労働条件や、組合に対する便宜供与に関するもの)を提出し、団体交渉の申入れを行った。これに対し、市ガ谷図書は「団体交渉の条件」(人数の制限、オブザーバー出席の制限、交渉時間は二時間、場所は社外等)を組合に提案したが、組合はこれを拒否し、結局、この「団体交渉の条件」を棚上げにして翌五七年一月一三日、同月二七日、二月二日に市ガ谷図書と組合との間で団体交渉が行われた(一月一三日、一月二七日の団交では上部団体役員の出席をめぐってそれぞれ三〇分ほど口論になった。)

この交渉の中で、「(偕成社)社員休憩室の一角を組合事務所として使用させること」及び「保険加入希望者に対してすべて従来通りの制度を適用すること」との組合要求に対して、市ガ谷図書は「市ガ谷図書だけでは解決できない」旨回答した。そこで同年二月五日、組合は西川執行委員長ら五名が右二項目の実施を要求する団交申込書を持って偕成社ビル四階の偕成社に赴いたところ、偕成社の今村廣社長は、「偕成社と君たちとは関係がない」と回答し、これに取り合わなかった。

同年二月二五日から同年四月二八日の団交まで、市ガ谷図書は、同社が委任した訴外文教開発センター社長の熊谷秀男をオブザーバーとして出席させるようになった。

同年三月一八日、組合は市ガ谷図書、偕成社販売及び偕成社の三社に対し、前記「要求書」に加えて「下請、外注、人事異動及び会社機構の改変に関する事前協議協定の締結」を求める「要求書」を提出し、同年四月六日、団交を行うよう申し入れた。

これに対し、偕成社及び偕成社販売は全くとりあわず、市ガ谷図書は同月一二日、「賃金増額は一月~三月までの労働実績による」、「組合事務所と事前協議制については認めない」、「保険加入については政府管掌保険に加入する」旨組合に回答した。組合は、これら三社の対応ぶりを不満として、同年四月から五月にかけて、偕成社ビル社屋内にビラ、ステッカーを貼ったり、偕成社中川総務部長宅の近隣でビラを配布したり、ストライキを実施したりし、市ガ谷図書は、こうした組合の行動に対し、そのつど「警告書」を発した。

3  市ガ谷図書の原告組合組合員らに対する雇止

(一) 肥留川社長は、山内桂を除く組合員八名に対し、昭和五七年九月一〇日及び同年九月二四日付けで、「就労場所の変更に応じないので臨時労働契約(アルバイト・パート)は期間満了をもって終了し爾後変更しない。」(中野孝彦及び脇衆一については無断欠勤を続けていることも併せて同年一〇月九日をもって臨時労働契約を終了する。)旨の契約不更新通知(内容証明郵便)を送付するとともに、同年九月二四日及び同年九月三〇日付け内容証明郵便で解雇予告手当金を支払う旨通知し、これを送金した。

(二) なお、右雇止時点における原告組合員らの契約期間等は別紙のとおりであり、前記職場復帰の和解が成立した昭和五六年一二月以降は、市ガ谷図書と従業員との間では、「パートタイマー従業員労働契約書」(尾形及び山内の場合)あるいは「アルバイト労働契約書」(右以外の者)を作成し、期間満了のたびに新たな契約書を作成して更新を繰り返してきたことが認められるが、それ以前までは、まとめて更新手続が取られていたこともあった。また、これらの労働契約書には「無断欠勤が六日に及んだとき契約期間中でも解雇し得る」旨、「業務の都合により就業の場所を変更することがある」旨定められていた。

(三) 前記組合員は連名で偕成社及び市ガ谷図書宛に、「この解雇は違法なもので認められないので、解雇予告手当金は九月二七日以降の賃金分として受領する。」(昭和五七年一〇月九日付け通知書、内容証明郵便)旨通知した。これに対し、市ガ谷図書は、前記組合員に対し、「解雇予告手当金として支払ったもので、労働契約は既に終了しており、賃金を支払う義務はない。」(昭和五七年一〇月一九日付け回答書、内容証明郵便)旨解答した。

4  不当労働行為救済申立てと棄却命令

原告組合は、本件解雇を不当労働行為であるとして、都労委に対し救済申立てをしたが、同委員会は昭和五九年一一月六日、右申立事件(昭和五七年(不)第一一一号)につき申立てを棄却する命令を発した。原告組合は、右命令を不服として被告に対して再審査を申し立てた(昭和五九年(不再)第六六号)が、被告は昭和六二年一二月一六日、右申立事件につき再審査申立てを棄却する命令を発し、右命令書は昭和六三年一月八日、原告組合に送達された。

二  争点

本件の争点は、本件戸田倉庫の建設と市ガ谷図書の戸田倉庫移転及び右移転に伴う職場移転拒否を理由とする原告組合員に対する雇止が、偕成社及び市ガ谷図書により組合壊滅を意図してなされたものとして不当労働行為に該当するか否かである。

三  原告の主張

本件戸田倉庫の建設と市ガ谷図書の戸田倉庫への移転及び右移転に伴う職場移転拒否を理由とする原告組合員の解雇(雇止)は、後述するように原告組合結成直後から組合を嫌悪し、不当労働行為を続けてきた偕成社及び市ガ谷図書が、原告組合の壊滅を目的として、その理由も必要性もないのに、出版業界における企業の郊外への移転という業界の趨勢に名を借りてなしたものであり、労働組合法七条一号、三号に該当する不当労働行為である。

1  戸田倉庫移転の業務上の必要性の不存在

(一) 被告中労委の判断

被告中労委は、市ガ谷図書の市ヶ谷での倉庫業務を全面的に戸田に移転することの必要性につき、「昭和五四年から五五年にかけて、返品本が増加しその収容問題も生じた状況もあって、昭和五六年初めころから、五十幡販売部長が……プロジェクトチームの中間報告を参考にして倉庫建築の具体的計画を練り」とか「市ガ谷図書の本件戸田移転は、偕成社が業界の動向に沿い、自社及び関連企業の業務運営状況を勘案しながら、戸田市に土地を購入して以来の懸案たる計画を具体化したものであり、市ガ谷図書としても偕成社の関連企業として同社との間に……密接な業務関連関係が認められる以上、戸田移転は市ガ谷図書の業務上の必要性に基づくものといわざるを得ない。」等と認定し、その結果「本件戸田移転は偕成社が再審査申立人組合結成の遙か以前から企図していた計画を実現したまでであって……組合の壊滅を狙った不当労働行為であると認める余地はない。」と認定している。

すなわち、被告中労委は、<1>昭和五四年から五五年にかけて増加した返品本の収容問題の解決及び根本的には<2>偕成社年来の懸案であった計画の具体化の二つの理由から戸田移転には業務上の必要があったとするものであるが、右判断は、以下のとおり、戸田全面移転の業務上の必要性の有無につき、明らかに判断を誤ったものである。

(二) 偕成社における合理化と商品管理業務上の移転の必要性の不存在

(1) 偕成社は、昭和四四年に戸田市下笹目字山宮所在の土地を将来の倉庫用地として購入したが、具体的にどのように使用するかという明確なビジョンはなく、次いで昭和四七年三月に板橋区坂下町にも土地を購入し、ここには昭和四八年一一月に無人倉庫を建設した。

(2) こうした中で、偕成社は、昭和四〇年代後半以降の出版界における高度成長に伴う業態の変化に対応した合理化(とりわけ、在庫保管、出荷、返品、改装等の商品管理部門における合理化)を行ない、昭和五一年ころにはこの合理化はほぼ完成した。

すなわち、偕成社は、昭和四九年七月にユニコン出版(編集、企画部門)、同年九月に市ガ谷図書(商品管理部門)、昭和五一年七月には板橋図書(商品管理部門)等、偕成社の編集・企画、制作、商品管理等の各部門の全部もしくは一部を別法人化し、人事管理面、機構面等においてその合理化を進めるとともに、商品管理業務においても、右の業態の変化に応じた合理化を進めた。

特に商品管理業務についていえば、偕成社は、昭和四八年一一月に前記のとおり板橋区坂下町に板橋倉庫を建設し、以来同所を保管倉庫(無人倉庫)として、本社での在庫保管業務の一部を板橋倉庫に移転し、その後、昭和五一年七月には、前記のとおり板橋図書を板橋倉庫所在地に設立し、同所において従来の在庫保管業務に加え、本社で行なっていた返品・改装業務の一部も行なうこととなった(有人倉庫化)。

なお、右のように商品管理業務を都内と郊外との分業体制で行なうことが業務上の便宜にかなうものであり、こういった分業体制を組むことは、現在においても出版業界において一般に行なわれている。

(3) ところがその後、昭和五五年ころからは販売量の増加に伴う返品率の増加等により、暫時増加してきた返品の処理(返品の保管改装等)に対処する必要に迫られるようになった。

そこで、同社取締役販売部長五十幡六郎(以下単に「五十幡」という。)と肥留川(市ガ谷図書取締役兼務、市ガ谷図書代表取締役就任は昭和五六年八月)とが中心となり、昭和五六年三月から八月にかけて次ぎのような商品管理業務における合理化を進めた。

<1> 従来から外注委託していた富樫梱包(在庫保管・改装)や、野村実業(返品)等に対する委託量を増やし、右返品処理業務の一部を吸収する。

<2> 板橋図書の在庫保管業務を増加させ、あわせて、本社ビル内で板橋図書及び市ガ谷図書が扱っていた返品受入受領業務の一切を板橋図書に移行する。

これらの商品管理業務の合理化により、偕成社本社ビル内で行なわれていた返品受入業務は、六月ころには一切無くなり、また、在庫保管量及び業務量も八月ころには半減した。そして、この偕成社本社ビルにおける商品管理業務の減少に伴い、約四五名いた市ガ谷図書の臨時社員も八月ころには約三〇名に削減された。

右合理化の措置は、基本的には返品量の増加に伴う偕成社本社におけるスペース不足問題に対処するものであったが、右各処置により、このスペース不足の問題は昭和五六年八月ころには完全に解消され、そこには新たに本件戸田倉庫を建設する商品管理上の必要性等は全く存在しなかった。

(4) 以上のとおり、偕成社には、昭和五六年一〇月当時、本件戸田倉庫建設を急遽進めざるを得ないような商品管理業務上の必要性は全くなかったことは明らかである。

(三) 戸田倉庫移転は偕成社年来の懸案の実現ではない。

(1) 偕成社内では、昭和五〇年ころ、会社社長の指示で取締役商品管理担当(当時)の肥留川満男を責任者とする「商品管理倉庫問題研究」プロジェクトチームを組み、倉庫問題の研究を進めた。

そして、同プロジェクトチームは、昭和五二年八月、三案(<1>戸田一か所で作業、<2>戸田倉庫と板橋の二か所で作業、<3>売却して新しく土地を求める)併記の中間報告をまとめたが、この報告はいまだ今村社長の目に入れるほど煮詰ったものではなく、箇条書きのメモ程度のものにすぎないものであった。

しかし、その後、同プロジェクトチームの検討は全く継続されず、研究はそれで終わりになってしまった。

(2) 右中間報告がなされた昭和五二年八月までには、昭和四八年一一月に板橋倉庫が建設され、昭和五一年七月には板橋図書が設立されており、右中間報告案のうち、そもそも板橋の売却を前提とするという案(前記<1>案及び<3>案)が含まれていること自体ナンセンスであり、既に時期遅れのものであった。

しかし、何よりも右の中間報告以降、右プロジェクトチームの研究が全く継続されず、それ以上の具体化がなされなかったのは、既に述べたとおり、右中間報告がなされた昭和五二年ころには、偕成社における商品管理業務は本社(市ガ谷図書)と板橋倉庫(板橋図書)とによる分業体制が確立し、偕成社の関連会社設立による機構面での合理化とも相まって、出版業界の業態の変化に対応し得る体制が十分整い、戸田の土地の活用を右合理化の一環として組み込んでいく必要性が全く無くなったからであった。

(3) 以上から明らかなように、右プロジェクトチームによる中間報告は、今回の戸田倉庫建設とは、その目的、必要性、経緯等の面から見ても全く連続性のない、無関係のものである。

2  戸田倉庫移転の不当労働行為性

以上のように、偕成社による本件戸田倉庫の建設と市ガ谷図書の右倉庫への移転は、その合理的理由も必要性も認められないものであり、その真の目的は、以下に述べるように戸田倉庫建設と市ガ谷図書の右戸田倉庫への移転発表の経過には重大な疑問点があることからしても、原告組合結成直後から原告組合の存在を嫌悪し、組合潰しのため数々の不当労働行為を繰り返してきた偕成社が、原告組合を偕成社本社ビルから放逐し、あわよくば組合員らを戸田移転を契機に解雇し、これによって原告組合を破壊することにあったものであり、このような企ては実は昭和五六年一一月の第一争議の和解時に当時偕成社販売に籍のあった組合員尾形恵子の現職復帰を合理的理由なしに頑強に拒み、結局右尾形を市ガ谷図書館に所属させた時点からなされていたものであることが明らかである。

(一) 本件戸田倉庫建設は、昭和五六年九月ないし一〇月ころ、偕成社今村社長の指示により、同社販売部長五十幡が中心となって企画・立案し、そのころ同社取締役会において決定されたもので、そこにおいて決定された内容は、右戸田倉庫を無人倉庫とし、品出し部門の人員は市ガ谷から戸田に移さないというものであった。そして、今村社長も、昭和五六年八月二〇日、原告組合との交渉の場において、「数年後戸田倉庫を建築する予定があるが、人の移動はない」旨明言していた。

ところが、戸田倉庫建設は「数年後」との今村社長の言葉と異なり、無人倉庫であればその建設を従業員に秘密にする必要は全くないはずであるにもかかわらず、商品管理部門である市ガ谷図書の従業員に一切知らせることなく、秘密裡に、しかも急ピッチで戸田倉庫建設工事が進められていた。

右事実は、戸田倉庫が当初から実は有人倉庫として計画されていたことを窺わせるものであるといわざるをえない。

(二) 次に、偕成社は、昭和五七年四月ないし六月ころ、戸田倉庫を無人倉庫とするとの計画を変更し、市ヶ谷での商品管理業務を廃止し、同社の商品管理部門の大半を戸田倉庫に移転すること(有人倉庫)とし、同年六月初めころ、肥留川市ガ谷図書代表取締役に市ガ谷から戸田への移転を命じたとする。

しかし、なぜこのような重大な計画の変更が突如なされたのか納得し得る説明は全くなされていないばかりか、右の動きは秘密裏に行なわれ、肥留川も、商品管理部門たる市ガ谷図書の戸田全面移転への計画変更の事実を原告組合が右事実を察知する七月二〇日に至るまで、原告組合(及び市ガ谷図書従業員)には秘密にしていたが、これは、当初から偕成社及び市ガ谷図書は従業員の移転を望んでいなかったことを示すものといわざるをえない。なぜなら、もし商品管理部門の円滑なる移転を望むのであれば、会社としては仕事に慣れている従業員で移転に応ずるものを確保することが重要になるはずであるし、そのためにも移転に伴う通勤の事情など予め従業員の意向を聞き、その便宜を図るのが通常であるからである。

また、原告組合員を含めた市ガ谷図書の従業員は、その大半が主婦のパート・学生アルバイト等であり、その生活基盤などからして勤務地の変更には困難を伴うものが多く、勤務地への通勤時間が往復四時間以上と極端になるものも少なくなく、戸田倉庫への勤務場所の変更は、このような従業員にとって不可能かあるいは極めて困難なことであることからすれば、肥留川社長はこのことを充分に知りながら、従業員の移転を望まなかったために、敢えて従業員の意向を聴取せず、移転の手続を一方的に進めたものといわざるをえない。

(三) 更に、偕成社及び市ガ谷図書は、あくまで市ガ谷図書の戸田全面移転を組合員及び従業員に秘匿しながら、赤羽保組合員の担当業務を同年七月になって突如販売部門から戸田移転計画の対象となっていた商品管理部門(品出し)に変更し、更には太田胤信組合副委員長を戸田移転の対象となっていなかったセットものの品出し業務から通常の品出し業務へと変更したが、これこそ正に、原告組合員を市ヶ谷から放逐し、戸田へと追い出すためのものであり、会社側の意図は極めて明らかである。

(四) また、会社側は、市ガ谷図書の市ヶ谷から戸田への移転の理由として、都内の本社ビルの有効利用を上げるが、市ガ谷図書が市ヶ谷から戸田へ移転した後、かって市ガ谷図書が使用していた広いスペースは三年間も放置されていたが、この事実は、偕成社本社ビルの有効利用ということは実際上会社側の念頭にはなく、何が何でも偕成社本社ビルから市ガ谷図書を追い出すことが最優先とされたことを物語るものである。

以上の疑問点に加え、偕成社今村社長自身「戸田移転は半年前に市ガ谷図書肥留川に連絡してあるはずだ」と発言していることや、偕成社相原取締役が「一次争議の和解に当たって、戸田移転の話を組合に提起しなかったのは信じられない過ちとしかいいようがない」と発言していることを総合すると、本件戸田移転は、偕成社ビルから原告組合を排除する決定打として、第一次和解交渉時から秘かに計画が練られ、準備が進められたものであり、本件戸田移転の不当労働行為性は明らかである。

3  本件解雇の不当労働行為性

(一) 前述のように、戸田倉庫の建設及び偕成社の商品管理部門の戸田倉庫への移転が、原告組合を本社ビルから放逐し、その壊滅を狙った極めて悪質な不当労働行為であることは明らかであるが、会社側の右意図は、右計画が原告組合に察知された以降の偕成社及び市ガ谷図書の原告組合及び従業員に対する対応にもはっきりと現われており、以下の経過からすれば、会社側には問題解決の意思は全くなかったことが明らかである。

すなわち

(1) 今村社長の口から市ガ谷図書の移転問題が明らかにされた昭和五七年七月二〇日の翌日、肥留川は、急遽市ガ谷図書従業員に戸田全面移転を発表したのであるが、これに対する原告組合の再三にわたる団体交渉申入れに対しても会社側は八月一一日に至るまで団交を拒否し続け、しかもこの間、個々の従業員に対し、戸田移転の意向の有無を八月五日までに回答するように強く求めながらも、右移転に伴う労働条件の変更更には移転後の具体的な労働条件の内容などを原告組合に全く明らかにしようとしなかった。

(2) 会社側は、八月一一日以降開催された原告組合との団体交渉の席上においても、賃金、通勤費の負担等、基本的な労働条件の内容についてすら組合側の要求に対する明確な回答をなさず、また掲示板、組合室等の設置の有無等、組合活動の根幹ともなる事項についても明確な回答を行なおうとはしなかった。

(3) また、会社側は、戸田への移転が困難な従業員に対する他部署への配転の可能性についても、一切誠意を持って検討しようとはしなかった。

そして、組合側の「組合及び従業員との交渉を尊重し、合意に達するまで右移転を一時凍結されたい」旨の要求にも会社側は全く耳を貸すことなく、ただ組合側に戸田に行くか行かないかの返答を迫った。

会社側は、このように誠意のない交渉を続けた上で、突然九月二四日、一方的に組合員らの解雇を宣告し、交渉を打ち切った。しかも、会社側は、右九月二四日、組合との交渉を打ち切る以前に、予め組合員川崎、同西川、同松田、同太田、同尾形らに対する解雇通知の発送すらしていた。

以上からすれば、この移転の事実発覚後の会社側の対応は、市ガ谷図書を原告組合もろとも本社ビルから放逐し、更に組合員らを含めた従業員らを右移転に応ずることが全く不可能な状況に敢えて追い込み、これを契機として組合員らを解雇するという、会社側のシナリオに沿って行なわれたものであることが明らかである。

このように、本件解雇は、原告組合の存在を嫌った偕成社及び右命令を受けた市ガ谷図書が、偕成社から組合員を排除し、原告組合を破壊する目的を持って行なったものであり、明らかに労働組合法七条所定の不当労働行為に該当する。

(二) 被告中労委の判断とその誤り

(1) 被告中労委は、「市ガ谷図書は、戸田移転及び同地での勤務等につき、組合員に対して団体交渉等を通じて条件等の提示を行なう等極力これに応じるよう協力を要請している。これに対し組合は、戸田移転に応じられない各組合員の個別の事情について具体的に説明することもなく、更に市ガ谷地区内での就労要求についてもその理由を具体的に示すこともなくことさらこれに固執し、戸田移転に応じなかったものであるから、市ガ谷図書が組合員らを雇止(解雇)にしたのはやむを得ない」としている。

(2) しかし、中労委の右判断は、既に述べたように、そもそも戸田移転が市ヶ谷からの原告組合員を放逐するための不当労働行為であることを看過している。

更には、誠意ある条件提示をしなかったのは会社側であり、戸田移転に応じてもよいと考えていた労働者の要求をも汲んで粘り強い条件提示の要求をしていた原告組合に対して、会社側は、事実上当事者能力のない中川、肥留川を交渉担当者とし、実質的な交渉を拒否したものであり、中労委の右判断は、明らかに事実誤認にほかならない。

4  偕成社及び市ガ谷図書の不当労働行為意思

以上に述べたように、偕成社による本件戸田倉庫建設と市ガ谷図書の右倉庫への移転及びこれに伴う職場移転拒否を理由とする原告組合員等に対する本件解雇は、偕成社及び市ガ谷図書によって原告組合壊滅の目的でなされたことは明らかであるが、右会社側において右目的を有していたことは以下に述べるこれまでの数々の不当労働行為によっても明らかである。

(一) 原告組合結成直後からの不当労働行為

(1) 原告組合は、昭和五六年五月七日に偕成社等へ組合の結成通告を行なったが、それに先立つ五月一日、組合結成を察知した会社側は、原告組合執行委員長西川玲を解雇した。原告組合は、五月七日、組合活動に関する事項、西川委員長の解雇撤回等を内容とする要求書を提出するとともに、翌五月八日に右要求に関する団体交渉を申し入れたが、会社側は、交渉日を五月一八日と一方的に指定してその間の交渉を一切拒否し、交渉に参加する組合側の人数をわずか二名に制限すると通告し、そのうえ右交渉当日には、被解雇者が代表者となっているような組合は認めないとだけ言って席を立ち、団交拒否の態度をとり、その後も原告組合を否認して一貫して団交拒否を続けた。

(2) また、偕成社は、原告組合からの支援要請を受け、右五月一八日の団交にも参加を予定し、偕成社側にもその旨通告していた偕成社労働組合(偕成社の正社員よりなる労働組合)に対し、右団交への参加を拒否し、偕成社社長今村から偕成社労働組合委員長らに対し、「臨労は絶対に認めない。臨労にかかわるなら偕成社労働組合も認めない。今までの春闘はなかったものとし、今後の交渉には一切応じない。」と通告し、原告組合及び偕成社労働組合に対する支配介入を図った。

(3) 更に会社側は、結成間もない原告組合を破壊するため、前記のようにその執行部を大量解雇するという暴挙に出た。

このため原告組合は、六月一日、七名の解雇に対し、東京都地方労働委員会に不当労働行為救済の申立て(都労委昭和五六年不第八一号事件)を行なったが、会社側は、右申立て同日、組合員松本守夫を六月九日付けで、副執行委員長池田尚子を七月九日付けでそれぞれ解雇した。

右解雇は、原告組合結成通知後わずか一か月という短期間に執行委員長を始めとする執行部の大半をたてつづけに解雇するという尋常ならざる行為であった。

(二) 都労委における経過と解雇撤回

(1) 都労委における審問手続が継続中の昭和五六年八月二〇日、偕成社代表取締役今村廣は、原告組合執行部を会社に呼び、「偕成社に臨時労働者組合は認められない。」と発言する等、相変らず原告組合に対する否定的態度を続けつつも、解決をほのめかし始めた。

なお、この席上、今村社長は、「数年後、戸田へ倉庫を移転する計画があるが、現在働いている人たちを移すことはない。」と明言した。

その後原告組合は、右今村の指示を受けた偕成社総務部長中川敏男と交渉を続けた結果、会社側は、最終的に「原告組合の存在を認める。被告解雇者九名は職場に復帰させる。その代わり原告組合は不当労働行為救済申立てを取り下げてほしい。」との解決案を呈示するに至った。

(2) 偕成社の解決案呈示を受け、和解交渉が進展するなかで、都労委の審問も一〇月二九日以降和解に切り替えられたが、和解で最後まで難航したのは尾形恵子の処遇であった。

尾形は、偕成社販売の臨時職員であり、原告組合は尾形については従来の身分で従来通りの勤務場所及び仕事を要求したが、会社側は市ガ谷図書以外であれば復職を絶対認めないという強硬な態度に出たため、原告組合はやむなく尾形が市ガ谷図書の臨時社員になることを了承した。

(3) こういった経過により、同年一一月二七日、都労委において和解が成立したが、原告組合の解雇問題については、全面的に、右一連の解雇が不当労働行為であったことを認め、被解雇者のうち原職復帰を希望する者七名が復職することで解決した。

(三) 和解後の不当労働行為

会社(偕成社、偕成社販売及び市ガ谷図書)は、右和解後も、それまでの原告組合敵視の態度を全く改めることなく、原告組合の壊滅を目指して次ぎのような数々の不当労働行為を引き続いて行なった。

(1) 会社は、右和解における合意により尾形恵子の就労場所は偕成社ビル一階事務室内の三原の横と決まっていたにもかかわらず、一階倉庫内に新たに設けた広さ一坪弱の檻にも似た小部屋(いわゆるガラスの部屋)で就労するように命じ、更には同人に和解において合意された仕事を与えず、また一旦与えた仕事を理由なくとり上げ、専ら封書の宛名書き等の単純作業しか行なわせず、そのうえ勤務時間を過ぎると与えていた仕事をとりあげて残業をさせないようにする等、尾形に精神的、肉体的苦痛を与え、原告組合執行委員として都労委の審問で偕成社の使用者性等について積極的な証言をした同人に対する報復をし、差別的待遇をしようとはかった。

(2) また会社は、原告組合の活動を制限して組合員の団結力を弱体化することを目指して、一二月一〇日、組合掲示板への掲示物について、何らの必要がないのに、「組合員の告知事項のみに限る、政治活動には使用しないこと、会社の役職員等への誹謗記事はダメ」と不当に制限を加えた内容の協約を締結するよう迫る等し、原告組合に対する支配介入をしようとはかった。

(3) 原告組合は、時給三〇円アップ、交通費の実費支給、希望者に対する出版健康保険への保険加入、組合事務所の設置等基本的な労働条件に関する要求書を、一二月一五日に会社に提出したが、会社側は団交を開く前提として、「交渉参加人数を制限、実質上の団交委任等の禁止、交渉時間の一律制限」等を内容とする団交ルールの受諾を強要し、一二月一五日以降一か月以上も団交を拒否し続け、その後原告組合が柔軟な態度をとったことからようやく団交に応じるようになったが、原告組合の組合事務所設置要求や健康保険加入の要求等の要求事項に対しては全く誠意ある交渉を行わず、事実上の団交拒否の態度をとり続けた。

(4) 更に会社は、いわゆる労務ゴロとして有名な熊谷秀雄に組合対策を依頼し、同人による原告組合の壊滅を試みた。同人は会社の意を受けて団交の場に出席し、あるいは昭和五七年三月一〇日には尾形恵子組合員に組合脱退を強要し、同日、太田胤信組合副委員長に暴力を振るう等して、組合攻撃を行なうに及んだ。

5  偕成社の使用者性

市ガ谷図書は、偕成社の商品管理部門が偕成社の方針によって形式上別法人化されたものに過ぎず、業務内容及び業務遂行の実体、責任者及び勤務する者の人員構成に何ら変化がなく、その業務も従前どおり偕成社社屋内の同じ場所で行なわれていて、偕成社社屋の使用について偕成社と市ガ谷図書間で賃貸借がなされた形跡もなく、市ガ谷図書の総務や経理的な仕事を依然として偕成社の社員がこれを行なっていたし、市ガ谷図書の代表取締役肥留川は、右別法人後(ママ)も、相変らず商品管理部長と呼称されていた。商品管理部門は、出版販売業にとって欠くことのできないセクションであり、市ガ谷図書は実質上偕成社の一事業部門に過ぎず、偕成社がその経営を直接支配しているものであり、人的、資本的、営業的諸関係からして、偕成社が市ガ谷図書の従業員更には原告組合との関係において、使用者としての責任を有するものであることは明らかである。

第三争点に対する判断

一  市ガ谷図書の「戸田移転問題」の経緯

1  偕成社における戸田倉庫建設に至るまでの経緯

(証拠略)によれば次の事実が認められる。

(一) 出版・印刷・製本等の会社は、以前から偕成社のある新宿区、文京区、千代田区等の都心に集中していたが、昭和四〇年代に入ってからは地価が高騰し、出版物を扱うには広い場所を必要とするところ、地価の高い所を単価の安い出版物の倉庫にするのでは採算が取れないことや、したがって地価の高いところでは階数の多い建物を建てざるをえないが、出版物は重量があるため、階数の多い建物では出版物の搬出や搬入が困難であるばかりでなく製品が傷むという不利があること、また都心部の交通渋滞が激しくなったこと等の諸情勢に押され、当初は板橋区や練馬区等へ、その後は更に遠くの朝霞市、志木市、戸田市、川越市等の郊外へ、その商品の保管・管理を含む流通部門の事業所を分散する動きが生じ、特に川越街道は通称出版街道ともいわれるようになった。

また、偕成社の出版物の印刷や製本を行なっている会社も郊外に住所を有する会社が多くなった。例えば、印刷関係では訴外小宮山印刷株式会社(昭和四七年ころ中央区から移転)、同中央精版印刷株式会社(昭和五〇年ころ神田から移転)、同株式会社精興社、同新興印刷製本株式会社、同大昭和紙工産業株式会社及び同株式会社トーツヤを合わせると偕成社の取引量の九五パーセントになるが、これらの会社はいずれも田無市、戸田市、朝霞市、板橋区、足立区に住所を有するし、製本関係では訴外文勇堂製本工業株式会社(昭和五六年に文京区から移転)、同サンブック株式会社、同ミサト紙工で偕成社の取引量の九〇パーセントを占めるが、これらの会社もいずれも戸田市、板橋区、三郷市に住所を有していた。

そして、文京区に本社を置く大手出版社においても昭和五六年の構想に基づき、埼玉県大井町に新刊の集品、出荷、流通、返品受入及び回収出荷の一貫システムにかかる流通センターを四年の準備期間を経て昭和六〇年一一月に完成させており、出版・印刷・製本関係の事業所を郊外へ分散する動きは五〇年代の後半から六〇年においても継続していた。

(二) 偕成社は、右のような情勢のもとで、将来の倉庫用地として、昭和四五年ころに戸田市下笹目字山宮(取得時約二五〇〇坪、本件戸田倉庫の敷地)に、同四七年ころには板橋区坂下町にそれぞれ土地を取得していたが、昭和五〇年ころ、他社が郊外に移転していくという状況の中で、当時商品管理部長をしていた肥留川を中心として社内に「商品管理倉庫問題研究会」なるプロジェクトチームを結成して右問題について検討を続けていたが、同研究会は昭和五二年八月に中間報告をまとめた。右中間報告では「<1>戸田市一か所で作業を行なう。<2>戸田市及び板橋区の二か所で作業を行なう。<3>戸田市及び板橋区の土地を売却して新たに土地を求める。」との三案が提示されたが、いずれの案を採用するかについて結論を得るまでには至らなかった。

(三) これとは別に、偕成社は、昭和四八年一一月ころ、前記取得してあった板橋区の土地の一部に「板橋倉庫」を建設し、当初は無人倉庫として使用していたが、昭和五一年七月一日に偕成社関連企業の一つである板橋図書が設立された後は、板橋図書が同倉庫で出版物の改装、返品等の作業を行なうようになり、以後偕成社の出版物はその種類により市ヶ谷と板橋の二か所に分けて商品管理されるようになった。また、それにより当面の商品管理は二か所で行なうことによって仕事の量に対応できるようになった。

(四) ところが、昭和五五年から五六年にかけて返品の量が著しく増加し、昭和五六年一月から三月までに約九名の男子アルバイトを採用して対処しようとしたものの、市ヶ谷の本社の倉庫では在庫が多くなって返品された物を収容し切れないような状態が生じ、更に倉庫内を整理し切れなかったことから品出しの間違いが増加して取引先からの苦情が相次ぎ、会社の信用問題が生じたため急遽対策を立てなければならなくなった。

そこで、市ガ谷図書の責任者であった肥留川は、テーブルリフターやフォークリフト等の導入による合理化を検討するとともに、偕成社の販売部長であった五十幡に対し、昭和五六年三月末ころ商品管理の一部外注化を依頼し、これに応え偕成社は、同年四月以降訴外有限会社富樫梱包、同有限会社吉尾商店等へ返品の改装を外注し、同年六月一日には全ての返品は板橋図書に外注した。

その結果同年八月ころには市ガ谷図書の業務量は従来の約五〇パーセントになり、同年三月ころには約四五名いたアルバイト等の従業員が同年一〇月ころには約三〇名になった。

2  偕成社による戸田倉庫の建設と市ガ谷図書に対する通知

(証拠略)によれば次の事実が認められる。

(一) 昭和五六年初めころ、前記返品本の増加という状況の中で、偕成社の販売部長であった五十幡は、前記プロジェクトチームの中間報告を参考にしながら倉庫建築計画の具体案を検討し、同年九月から一〇月にかけて、前記戸田市の土地に倉庫を建築する案をまとめたが、その時点では、右倉庫は出版物を保管するだけの無人倉庫として計画されていた。

右五十幡は、右計画の実行に着手し、昭和五六年一二月一九日に建築予定地に法令に基づく「建築概要告知板」を設置し、昭和五七年二月二二日ころ都市計画法上の開発許可申請をし(同年三月ころ許可)、昭和五七年三月二五日に建築確認申請(同年五月四日に確認)をし、同年四月に地鎮祭を行ない、当初の予定は同年四月一日に工事に着工して同年八月末に完成の予定であったが、実際には工事の着工が遅れ、同年七月に工事に着工し、完成は同年九月の下旬となった。

なおこの間、市ガ谷図書は、同年六月一七日に本店の住所を倉庫建設予定地に移転し、同月二四日に右移転登記がなされた。

(この点については争いがない。)

(二) 右のように、戸田倉庫は当初は無人倉庫として計画されたものであったが、偕成社は昭和五七年四月から六月にかけて右計画を変更し、市ケ谷での商品管理部門も戸田倉庫に移転することとし、前記五十幡は、同年六月初めに市ガ谷図書の代表取締役肥留川に対し、市ガ谷図書が偕成社ビル内で行なっていた業務は全て戸田倉庫で行なうことになるので、九月ころ同倉庫へ移転できるよう準備されたい旨伝えた。

右通知を受けた肥留川は、市ガ谷図書の決算期が八月三一日であったことから、川口税務署、戸田市役所、労働基準監督署、県税務署等の諸官庁に対する申告届出等を速やかに行なう必要があるので、司法書士の勧めもあってとりあえず前記本社移転登記をした。

(三) 昭和五七年七月二〇日に、原告組合が偕成社の社長今村に春闘に関する申入れをした際、同社長に「最近荷物を移動しているけれど、移転する話でもあるのか」と質問したところ、同社長は、「九月の中ころで倉庫は全部移転する。」と答えた。

(四) 翌七月二一日、前記肥留川は、朝一〇時から市ガ谷図書の全従業員を集めて「昨晩の会議で市ガ谷図書は九月一七日の金曜日で市ヶ谷での業務を中止し、九月二〇日の月曜日から戸田にて業務を開始する」旨発表し、その理由として<1>市ヶ谷は場所が狭く非能率であること、<2>交通事情が悪化したこと、<3>製本所や印刷所が戸田方面に集中していること、<4>取次店が郊外に移転していること、<5>市ヶ谷では人員確保の上で問題があること等を挙げた。

3  市ガ谷図書による戸田移転の発表から本件解雇に至る経緯

(証拠略)によれば次の各事実が認められる。

(一) 市ガ谷図書の肥留川社長は、昭和五七年七月二二日から八月三日までの間に七回にわたり午後一二時五〇分から一時三〇分くらいの間、昼礼時間等を利用して原告組合員を含む全従業員に対し(七月二九日は組合員四名に対し)移転問題についての説明を行なうとともにこれに関する質疑応答を行なったが、八月二日の説明は組合員らが「戸田移転反対」のみを叫んで他の従業員の声が聞き取れなかったため途中で中止された。

その間の七月二八日に肥留川は全従業員に対し、戸田へ移転することにつき意思を確認することとし、「戸田倉庫へ業務移転に関する件(回答)」と題するアンケート調査の書面を各人に交付し、八月五日までに回答することを求めた。なお、これに対し非組合員一一人は、八月五日までに三人、八月六日に四人、八月一〇日、一六日、九月八日、一六日に各一人と、結局全員が戸田へは行かない旨の意思表示を行なったが、組合員全員は、後記認定のように最後まで移転自体に絶対反対であり、市ヶ谷での就労に固執し、右回答書も提出しなかった。

(二) 八月三日に肥留川は、勤務時間中に全従業員に対して戸田倉庫の所在地の地図、交通機関、所要時間、バスの時刻表等をまとめた資料を配布し、説明を行なった。なお、同日は勤務時間後組合との間で春闘に関する団交が行なわれ、席上組合は市ガ谷図書及び偕成社宛ての「戸田移転(案)に関する見解書」を読み上げ提出したが、その内容の要旨は、両社が移転二か月前に初めて、しかも、組合の頭越しにこれを発表した上、前記アンケーと調査を始めたことに抗議するとともに、組合との団交で合意に達するまでは移転計画を凍結すること、従業員の市ヶ谷地区での雇用を確保することを要求するというものであった。

(三) 八月一一日の団交の席上、市ガ谷図書は組合に対し、正式に戸田移転の通知を行なったが、組合側は戸田移転の日の変更の有無、戸田へ行く人の労働条件、戸田へ行けない人の処遇等につき回答を求め、会社はこれに対し、戸田移転の日を変更する意思はないこと、労働条件についてはこれまでと変わらないが、特別に条件につき意見があれば早くまとめて提出してほしいこと、戸田へ行けない人のことについては今のところ考えていない等の回答を口頭でした。

八月二四日に、市ガ谷図書は、前記配布した戸田移転に関するアンケート調査について同月二七日までに書面で回答するように組合に申し入れたが、組合はこれに応じなかった。

(四) 一方組合は、八月二六日、市ガ谷図書及び偕成社に対し、「要求書」を提出し、同月三一日まで文書で回答するよう求めたが、その内容は市ヶ谷地区(偕成社の関連企業)に雇用を保証し、業務の一部を残すこと、戸田移転に応じる者については従来の労使慣行・労働条件の変更は行なわないこと、通勤費を全額前払すること、移転は組合との協議が調うまでは実施しないこと、右要求に係わるストライキについては賃金カットを行なわないことというものであった。これに対し、市ガ谷図書は、戸田移転は実施せざるをえないこと、雇用については戸田地区で保証すること、労働条件は戸田移転後団交で話し合って行くこと、労務の不提供については当然に賃金カットをすること、組合員については戸田地区に移転後も勤務を継続することを希望する旨記載の「回答書」を同月三一日に組合に提出したが、組合は何の回答もしなかった。

(五) その後、九月六日から同月一七日にかけて、六日、九日、一四日、一六日、一七日の五回にわたって市ガ谷図書と組合との間で移転問題について団交が行なわれたが、要旨は次のとおりであった。

九月六日の団交では、会社側の八月三一日の回答につき話合いが行なわれ、会社側は第二次回答として交通費の全額前払、今までの昼食手当一一〇円を取消し、特別通勤手当一日一一〇円以上二〇〇円以下を考えているとの案が示されたが、組合はこれに応じなかった。なお、組合員の移転に関する回答が未だなされていなかったので、同月八日に肥留川が委員長の西川に対し口頭で同日団交を開くことを口頭で申し入れたが、口頭で拒否されたため同日文書で翌九日に団交を行なうことの申入れをした。

九月九日の団交では、組合側は偕成社関連企業での雇用保証を要求するとともに、今後の労使関係、商品の戸田への移転、戸田へ行けない人の取扱いについて会社側の考えを質したが、会社側は関連会社での雇用については一四日をめどに各関連会社に聞いてみる、労使慣行については今までどおりとする、商品の移転は行なう、戸田へ行けない人にはご苦労賃を考えている等の回答をし、更に九月一四日の団交では、市ガ谷図書の移転日に変更はないこと、戸田に移転する者には一日一二〇円の食事手当の代わりに特別手当として一日一五〇円を支払う、どうしても戸田へ行けない人には餞別として一律三万円を支払う等の回答をするとともに、戸田での出勤日を一週間延ばし九月二四日までとする提案を行なったが、組合側はこれに対してあくまでも市ヶ谷における雇用保証に固執し、他の条件については具体的意見を述べようとはせず、このような状況は九月一六日及び一七日の団交でも変わらなかった。

(六) 右交渉の中で、肥留川は組合に対し、偕成社関連企業や市ヶ谷地区で雇用を保証することは困難であると伝えたが、九月一七日に組合側があくまでも市ヶ谷地区における雇用を強く求めて偕成社に団交を申し入れたため、偕成社も団交に出席することになり、市ガ谷図書との団交に偕成社の中川総務部長も出席して九月一八日から二四日にかけて更に五回の団交が行なわれた。

しかしながら、右中川は、偕成社及びその関連企業では雇用することは出来ないとの説明を繰り返すだけであったため、あくまでもこれを求める組合との交渉は結局物別れに終わり、九月二四日の団交の席上で肥留川は組合に対して、「組合員の次回の契約更新は行なわず、今回の雇用契約の終了日をもって雇用を終了する」旨口頭で通告した。

(七) 偕成社は、前記のとおり、原告組合員を含め市ガ谷図書の臨時従業員で戸田移転に応ずる者が皆無であったため、市ガ谷図書が前記雇止をした直後の九月二七日に下請業者の訴外光梱包株式会社と委託契約を締結し、戸田倉庫で、市ガ谷図書が従前市ヶ谷で行なってきた業務に当たらせることにした(もっとも、同社は契約の一月前ころから、人が揃うまでの品揃え等の下準備は行なってきたが、最終的に右期日に自社で請負うことのできる業務の量がはっきりしたので正式に契約したものである。)。

また、戸田へ移転した市ガ谷図書は、その後同地区でパートの従業員の募集を行ない、数名を採用して返品・セット組等の業務を行なうに至った。

二  偕成社の戸田倉庫建設及び市ガ谷図書の移転の不当労働行為該当性

1  戸田倉庫建設及び市ガ谷図書の戸田倉庫移転の業務上の必要性

原告は、そもそも偕成社による本件戸田倉庫の建設と市ガ谷図書の戸田倉庫への移転は、全くその業務上の必要性がないのに、原告組合を壊滅させるために行なわれたものであると主張する。

しかし、前記争いのない事実及び認定事実からすれば、むしろ偕成社による本件戸田倉庫の建設と市ガ谷図書の戸田倉庫への移転は、偕成社にとっては出版関連業界における企業の郊外移転という業界の動向に沿い、自社及び関連企業の業務運営状況を勘案しながら、原告組合が結成されるはるか以前の昭和四〇年代に戸田市に土地を購入して以来懸案となっていた計画を具体化したものであって、同社の業務上の必要性に基づくものと認められ、また、市ガ谷図書にとっても、同社が偕成社関連企業の一つであって両社の間には前記のように密接な業務関連関係が認められることからすれば、戸田倉庫に移転することは同社の業務上の必要性に基づくものと認められるのであり、偕成社による右倉庫の建設と市ガ谷図書の右倉庫への移転はその業務上の必要性がなかったと認めるに足りる証拠はない。

原告は、偕成社が昭和五一年に板橋図書を設立したことによって、昭和五二年ころにはすでに昭和四〇年代後半以降の出版界における高度成長に伴う業態の変化に充分対応できる体制を整え、新たに戸田に倉庫を建設する必要性はなかったと主張し、なるほど板橋図書が昭和五一年に設立されたことは原告主張のとおりであるが、そのことによってそれ以降の出版業界の変化に対応する充分な態勢が整えられたと認めるに足りる証拠はなく、かえってそれが誤りであることは、前記認定のように偕成社が右態勢が整ったとされる数年後の昭和五五年ころからの返品本の増加によってたちまちその処理に困難をきたすようになったことからも明らかである。

また原告は、昭和五五年からの返品本の増加による市ヶ谷の偕成社本社ビルでのスペース不足は昭和五六年三月から八月にかけての前記商品管理業務の委託量の増加、市ガ谷図書から板橋図書への業務の一部移転により解消したことにより、戸田倉庫建設の必要性は全くなくなったと主張し、確かに、前記認定のように昭和五六年八月ころには右処置により偕成社ビル内での市ガ谷図書の業務量は同年三月ころの約半分になったことが認められる。

しかしながら、それ以上に、それによって長期的に偕成社本社ビルのスペース問題が解消されたことまで認めるに足りる証拠はないだけでなく、出版関連企業が郊外に移転せざるを得なくなった理由は、前記認定のように、都心には広い場所を確保することが困難になったことだけではなく、地価の高い所で商品価値の安い本を保管するのは採算が合わないこと、階数の多いビルの中での作業は商品に傷が付きやすい等合理的でないことや、交通渋滞も激化し、道が狭くて車の出入りに困難をきたすこと等の種々の理由によるものであるところ、偕成社本社ビルがある地域の地価が高いことは公知の事実であり、また(証拠略)によれば、市ガ谷図書が作業をしていた同ビルは地下一階地上六階建で、一階だけではなく六階を含めた他の階にも倉庫があり、エレベーターを利用しての本の搬出・搬入は非能率的であったこと、同ビルは場所的に大型車(四トン車)を乗り入れるのが困難であったこと等が認められるのであるが、昭和五六年三月から八月にかけての前記合理化は右問題を何ら根本的に解決しているものではなく、したがってそれによって偕成社による戸田倉庫建設の必要性が全くなくなった等とは到底認め難く、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

また、原告は、市ガ谷図書が戸田に移転した後、同社が使用していた広いスペースは三年間も放置されていたのであるから、偕成社にはもともと本社ビルの有効利用等という考えはなかったと主張し、なるほど、(証拠・人証略)によれば、偕成社の本社ビルのうち市ガ谷図書が作業をしていた倉庫部分は、市ガ谷図書が移転した後も三年位の間そのままになっていたことが認められるが、右各証拠によれば、それは必ずしも偕成社において放置しておいたわけではなく、貸借の交渉はしたものの貸し手と借り手の条件が折り合わなかったり、倉庫用に作られていたことから窓や空調設備がなく、改修工事をしなくては良い条件で貸すことができなかったためで、その後改修工事をして他の会社に貸していることが認められ、これらの事実と照らし合わせると、結果的に三年間そのままになっていたというだけでは偕成社には本社ビルの有効利用という考えはなかったとまでは認められない。なお、偕成社は、前記のように昭和四〇年代に既に本件戸田倉庫の敷地を取得し、弁論の全趣旨によれば以後右広大な土地をあそばせていたことが認められるのであって、このことと右に述べた郊外移転による他のメリットを考えあわせると、市ヶ谷の本社ビルの有効利用という点で結果的にこれまで市ガ谷図書が使用していた部分の三年間の無使用という状態が続いたとしても、そのことから直ちに戸田倉庫の建設と市ガ谷図書の移転が不合理なものであるということはできない。

2  原告のその他の主張に対する判断

原告は、偕成社及び市ガ谷図書は厳重に秘密を守り、隠密裡に戸田倉庫の建設を始めたが、それは当初から戸田を有人倉庫とし、市ガ谷図書を戸田に移転させることによって原告組合を市ガ谷図書から追い出すことを狙ったものである旨主張する。確かに前記認定のように、偕成社が市ガ谷図書に戸田倉庫への移転を通知したのは昭和五七年の六月初めであり、市ガ谷図書から原告組合員に右移転が知らされたのは同年七月二一日であったが、それまで偕成社がことさら厳重に秘密を守り隠密裡に戸田倉庫建設を始めたとまでは認めるに足りる証拠はなく、また、当初から有人倉庫として計画されていたと認めるに足りる証拠もない。

なお、原告は、偕成社の今村社長が昭和五六年の八月二〇日に原告組合と交渉したさいに「数年後戸田倉庫を建築する予定があるが、人の移動はない」旨明言していたと主張し、原告代表者西川玲の中労委における審問調書(<証拠略>)中には右主張に沿う部分がある(同人は、「私たちも行くのかという形で聞いたのですが、そういう計画ではないといって行かないことを断言した」旨供述している。)が、前記のとおり当時は原告組合員らは全員解雇されており、その解雇をめぐって都労委で事件が系属中であったことと照らし合わせると、その場でそのようなことが問題となるはずがなく、右供述は到底信用し難い。更に、原告組合員川崎恭治の中労委における審問調書(<証拠略>)中には、昭和五七年五月一四日の団交が終った後に原告組合の執行委員長である前記西川が市ガ谷図書の阿部営業部長に対し、戸田に倉庫ができて自分達も移るという噂があるがどうかと質したところ、同人は否定した旨の供述があるが、右西川はそのような供述を全くしておらず、また仮にそのような経緯があれば当然そのことについて移転発表後問題となるはずであるが、そのことが問題となったことは全く窺われないことからして到底信用し難い。また、(証拠略)(組合ビラ)の記載中及び前記川崎の審問調書中には、昭和五七年七月二〇日に肥留川は「偕成社との契約はこの八月で切れるけれども、あと二、三年はこのビルで現状のままやって行きたい。人数は減っているが少数精鋭でやって行くからよろしく。」と述べた旨記載ないし供述している部分があるが、もしそれが真実であるならば、前述のように同日偕成社の今村社長から戸田移転の話があったのであるから、当然その点につき直ちに肥留川社長に対し何らかの抗議があるものと思われるところ、そのような事情を窺わせる証拠もないことや、前記市ガ谷図書と偕成社との関係からして、偕成社との契約が切れるはずはなく、また、偕成社との契約が切れるのに偕成社ビルの中で業務を続ける等ということは考えられないこと及び肥留川は当時既に九月には市ガ谷図書は戸田に移転することを知っており、そのようなことを言えばすぐにそれが嘘であることが明らかになることからしてそのようなことを述べるとは思われないこと等からすると、右川崎の供述及びビラの記載は信用し難い。

更に原告は、偕成社及び市ガ谷図書は、戸田移転発表前の昭和五七年七月に、原告組合員の赤羽保及び同委員長太田胤信の業務を戸田移転の対象とならない業務から突然移転となる業務へと変更したが、これこそまさに原告組合員を市ヶ谷から追い出す意図であることが明らかである旨主張し、確かに(証拠略)によれば、右赤羽はそれまで偕成社の社員である大野喜一郎の補助として同人の車に乗って取次店を回る業務に従事していたが、昭和五七年七月一二日に肥留川から内勤になるとの指示を受けて八月二日から品出しの業務に従事するようになったこと、また、太田胤信は、それまで偕成社ビルの六階でセット物の品出し作業を行なっていたが、七月一五日に会社から七月二一日以降同業務は板橋図書へ移されることになったので一階の品出し業務に従事するようにいわれ、以後その業務に従事したことが認められる。しかし、右各証拠によれば、赤羽が品出しに従事するようになったのは、右大野が高齢(昭和二年生)のせいか自動車運転による事故が多く、同年六月にもタクシーに衝突する事故を起し相手に怪我をさせたことから運転させることが困難になり、そのため赤羽を同人の補助業務に従事させておくことができなくなったことによるものである(その後は、右業務は訴外伸和運送の自動車に右大野が同乗して行なっている。)こと、また、右太田の件については、偕成社の方針としてセット物の品出しは全て板橋図書に集中させることにしたことに起因するもので、しかも非組合員を含む右作業に従事していた者全員に対し指示がなされ、ことさら組合員である右太田に対してのみ移転の対象となった業務に移したわけではないこと等が認められ、これらの事実からすると、原告の前記主張は理由がない。

3  以上のように、偕成社による本件戸田倉庫の建設及び市ガ谷図書の戸田倉庫への移転は、それぞれ偕成社及び市ガ谷図書の業務上の必要性に基づくものであって、原告組合の壊滅を目的としてなされたものとは認められず、右各行為が不当労働行為に該当するとは認められない。

なお、原告は、偕成社及び市ガ谷図書が原告組合を嫌悪していたとして、原告組合結成直後からの不当労働行為を疑わせる種々の事実を主張する。

そして、原告組合が結成される前後から原告組合員の解雇を廻る問題が発生し、その件につき都労委に不当労働行為事件が系属し、その事件が和解により終了した後もすぐに労使関係が円滑にいくようになったわけではないことは前記のとおりであり、本件戸田倉庫の建設及び市ガ谷図書の戸田倉庫への移転の問題が右紛争と時期を接して生じたことは確かである。

しかしながら、都労委における右和解後に生じた労使間の問題のうち原告組合員尾形恵子の就労場所の問題及び組合掲示板の貸与条件の問題は、協定書中に明確にされなかったことに原因があるともいえるものであり、しかもいずれも結果的には協定書に明示してあるとおりに実現されていることからすると、市ガ谷図書において右協定を順守する意思がなかったとまでは認めることができない。また、確かに本件戸田倉庫の建設と市ガ谷図書の移転問題は、原告組合と市ガ谷図書ないし偕成社との間の紛争と時期は接しているが、前記認定のように偕成社の商品管理部門の郊外への転出は原告組合が結成される遙か以前から検討されていたものであるとともに、直接のきっかけとなったのは昭和五五年からの返品の増加という状況に直面した五十幡が昭和五六年の初めから戸田倉庫の建設を具体的に検討しだしたことによるものであって、その時点でもまだ原告組合は結成されていなかたことからすると、両者の時期が接しているというだけでは両者間に関連性があるものと推認することはできない。更に、原告主張のように、右和解の段階において既に原告組合を壊滅させるために市ガ谷図書の戸田移転が計画決定されており、市ガ谷図書もそのことを知っていたとすれば、それまでのわずかな間に組合との間で問題を起こさない方が市ガ谷図書はもちろん偕成社にとっても有利であることは明らかであるにもかかわらず、市ガ谷図書と組合との間において和解後前記各問題が生じていることからしても、市ガ谷図書の戸田移転と原告組合との紛争との関連性は薄いことが窺われる。

そして、前述のように、偕成社による本件戸田倉庫の建設及び市ガ谷図書の戸田倉庫への移転につきそれぞれ業務上の必要性が認められることからすると、原告主張の諸事実を勘案してもなお、偕成社の本件戸田倉庫建設及び市ガ谷図書の戸田倉庫への移転が原告組合の壊滅を目的としてなされたものとは認め難く、したがって不当労働行為に該当するとは認められない。

三  市ガ谷図書による本件解雇(雇止)の不当労働行為該当性

原告は、市ガ谷図書による本件解雇(雇止)は、原告組合を嫌った偕成社及び同社の命令を受けた市ガ谷図書によって、原告組合を壊滅させる目的でなされたものである旨主張する。

しかしながら、偕成社の本件戸田倉庫の建設及び市ガ谷図書の戸田倉庫への移転それ自体は、偕成社及び市ガ谷図書の業務上の必要性に基づいて行なわれたものであって、それを不当労働行為と判断することはできないことは前記認定のとおりである。そして、原告組合員等はいずれも市ガ谷図書に雇用され、市ガ谷図書が偕成社から請負っている品出し等の商品管理部門及びそれに付属する業務に従事していた者であり、市ガ谷図書の戸田倉庫への移転の結果市ガ谷図書の市ヶ谷における業務は存在しなくなったことは前記のとおりであるから、市ガ谷図書において当然に原告組合の組合員の就労場所を市ヶ谷地区に確保しなければならない義務はない(前記のように、各人の労働契約書の中には「業務の都合により就業の場所を変更することがある」旨定められていることからすればなおさらである。)というべきであり、したがって、偕成社ないし市ガ谷図書において、非組合員に対してのみ市ヶ谷地区における雇用を確保したとかの特別の事情でもあれば格別、そうでない限り偕成社ないし市ガ谷図書が市ヶ谷地区に原告組合員等の就労場所を確保しなかったからといってそのことが不当労働行為となる余地はないというべきであるところ、本件においては特別な事情も認められない。

そして、前記認定の事実からすると、市ガ谷図書が、移転発表後の原告組合との団交等の交渉の中で、具体的な労働条件を提示して原告組合に対し戸田での就労を要請しているのに対し、原告組合は、労働条件についての具体的な対案を示すことなく、また、戸田での就労が不可能である各組合員の個別的事情を示すこともせず、ただあくまでも偕成社ないし市ガ谷図書による原告組合員全員の市ヶ谷地区での就労場所の確保に固執し続けたものと認めざるをえず、したがって、市ガ谷図書が原告組合員等を前記のように雇止にしたのはやむを得ないところであって、不当労働行為に該当するところはないと判断せざるをえない。

(裁判長裁判官 草野芳郎 裁判官 高田健一 裁判官 山本剛史)

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